小岱(代)焼の歴史


 寛永九年(1632)豊前小倉城主細川忠利が肥後に大守として入国のとき、豊前上野の牝小路(ひんこうじ)から小岱山(当時は小山)の北東麓、南関手永宮尾村(現玉名郡南関町宮尾)に移り住んだ陶工源七(牝小路家初代)と上野の加津羅木山から同所に移った八左衛門(葛城家初代)によって始められたとされている。

 小代焼は明治になり藩の保護が絶え衰退したが、昭和6年(1931)近重治太郎が熊本市健軍町に築窯。また、昭和21年(1946)に有田の陶工城島平次郎が荒尾市府本で発見した陶片(古畑窯跡)に見せられ小岱焼を志し、荒尾市大島に「しろ平窯」築窯した。
 現在は荒尾市に7窯、南関町に2窯、長洲町・嘉島町・松橋町にそれぞれ1窯元、12窯があり、伝統を受け継いだ物や新しい物など、個々に様々な小代(岱)焼を制作している。
小代焼は平成15年(2003年)に、国指定伝統的工芸品に指定された。

 釉薬は藁灰・木灰・笹灰などを使用し、地釉の上に白や白黄色などの流し掛けが特徴。朝鮮唐津に類似している物もある。

※小代の"代"は開窯当時、小岱山は小代山と表記されており小代焼となった。小岱焼の"岱"は城島氏が築窯した時代には小岱山が正式名称となっており、また古小代の先人達への敬意もあり小岱焼とした。
現代小代焼草創期は、しろ平窯・末安窯以外にも小岱焼と称する窯が数件あったが、現在はこの2件以外は小代焼としている。

※前記の古畑窯跡を小代焼の発祥の地と唱える動きもあるが、この窯は加藤清正時代のものとされており、文献等として残っている南関町宮尾での発祥より古い窯ではあるが、小代焼と名乗った等の文献等の痕跡は無く、多くの小代(岱)焼の窯元は、小代焼発祥の地は南関町宮尾で、あえて言うなら小代焼の前身となる窯と考えている。